花まるリフォーム創業物語
〜笑顔の種が花咲くまで〜
はなまる工事を目指して20年以上私たち「花まるリフォーム」にもささやかな創業物語があります。
自慢できるようなストーリーではありませんが、興味がある方はちょっと除いてみて下さい。かなり変わった職人集団の出来るまでが、分かるかも知れません…。
私は、昭和41年8月31日に、東京都世田谷区の梅ヶ丘で塗装屋の長男として産声を上げました。
子供の頃は高度成長時代だった事もあり、父は1人で、日曜も祝日も無く働き詰めの毎日を送っていました。 私は、ごくフツーの悪ガキ仲間(?)と遊んでいた少年時代でしたが、小学4年生頃から「宇宙戦艦ヤマト」に夢中になり「マンガ」と「アニメ」にだんだん興味を持ち始めましました。(ちなみに、次男の名前は…大和といいます) この頃からモノ作りにはこだわっていたようで、図工の授業だけには妙に凝ったモノを作っていたのを思い出します。(成績は、図工だけ5で後は3ばかり…) 小学校低学年の頃から、国士館大学の教室の塗り替え工事などで、よく現場について行った記憶があります。 |
中学生になると、GWや夏休みを利用して仕事の手伝いに行きました。(もちろんアルバイト代欲しさに、です)
今考えると無謀な気もしますが、すでにその頃ハケを持たされて塗っていた覚えがあります。 今でも覚えているのは、ビルの配水管の塗装の現場です。10センチ位の太さの水道管を何百メートルも塗っていくのですが、毎日、毎日、真夏のビルの屋上の熱さにさらされ、汗だくになりながら働きました。 貯めたお金で、その当時流行していた一眼レフカメラを買えた時は嬉しかった。 その後も、望遠レンズや色々なパーツを買うために、バイトには休みの度に行っていました。 |
高校は、明大前にある日大鶴ケ丘高校に入学。 アニメの道も「プロ」を視野に入れるようになりました。 美術部で、マンガやアニメの仲間を作り、学園祭では何千枚もの絵を描き、自主アニメーション映画を作るようになっていました。 (花まるリフォームのイラストを描いてくれている太田君とはこの時からの付き合いです)学園祭が近くなると毎年実家で合宿が行われ、昼夜問わずの作画・色塗り・撮影が行われます。 2階の6畳の私の部屋に5~6人で作業をするので、「誰かが階段の前で寝ていた」とか「2階の床が抜けるか心配だった」と後で親に言われました(笑)。完成したアニメは結構評判が良く、才能ある?と、錯覚を持ったまま、念願の日大芸術学部映画学科・アニメコースへ進学が決定しました。 (実は、小学生の時に「日大芸術学部」にはアニメを教えているゼミがあると知り、その時からずっとこの大学に入るのが夢で日大の付属高校に行ったのです) |
高校生にもなれば、体力もそれなりに付き、アルバイトの作業も結構シビアになってきます。 それで、1度足場から落っこちた事がありました。 2階の軒先を塗っている時に、足場の高さが丁度良い具合にならず、足場にしゃがんで下から覗き込むような恰好で作業をしていたのです。フラーっとバランスを崩し、そのまま下に…。気がつくと、隣とのブロック塀の真ん中にドスンとまたがるように落ちていました。 実際に落ちたのは2m程度。幸い、お尻が少々痛かった程度で何事も無かったのですが、しばらく震えで立てませんでした。この時の失敗談(足場で下から覗き込むような作業は厳禁)は、今でも全ての職人さんに厳しく教え込んでいます。 |
大学生活ではさすがにみんな才能があり、すでに声優として活躍中だった同級生(今は「サザエさん」のカツオ君の声をやっています。)もいました。
さらに、同じ漫画研究会の先輩が「名探偵コナン」の著者青山剛昌さんで、私や妻が実名で作品中に出演しています。(私は犯人役でした…「名探偵コナン」第5巻に出演しています)。 高校生の時とは違い、さらにスケールアップしたアニメ映画製作を続ける中で、次の目標が立てられずにいる自分がいました。 |
さらに2年生の春、1年遅れてマンガのサークルに入って来た妻と出会い、就職の事を本気で考えなければならなくなりました。 アニメの仕事での給料の安さは並外れているので、並みの結婚生活は出来そうにありません。また、周囲を見渡した時の、自分の才能の限界も痛感していました。結局私は、大学4年生の春(卒業予定単位が取れているにも関わらず)大学を中退し「夢」を置き去りにして、塗装の世界に入りました。 |
父の塗装店は工務店やリフォーム店の下請け業者でした。 外壁の塗り替えは月に1度程度。後は、細々したリフォーム工事が中心です。さて、そうして職人デビューを果たした私は、毎日修行の日々を送ります。 もちろん、黙々と真面目に仕事はしていましたが、夢中になって打ち込んでいたかというと、決してそうは言えません。 子供も出来て、毎日充実した日々を送っていました。しかし、今思うと「チャレンジ精神」を失っていた時代でした。職人を始めてからは、自分の意見が通らない父の下で働く事が当たり前になり、仕事以外の事で自分の充実感を補って、自分をごまかしていたのかもしれません。 |
仕事以外の出来事の中で自分が「対人販売」が好きである事に気が付いていきます。 (母方の実家が、梅ヶ丘でそば屋をしているので、商売人の血が、私にも流れているのかも知れません)まずは、学生時代にサークルでマンガの同人誌を作って売り子をしている時。 それから、家庭の不用品を公園で売り買いするフリーマーケット。 さらに、子供のボーイスカウトの親の会で神社のお祭りなどで屋台販売をしていた時。 インターネットのオークションで400個も売っていた時。それぞれの準備やお客さんとの対話、喜んで買ってもらった時の喜び…もちろん収益を上げる喜びに(その日の打ち上げで使い切ってしまう額でも)充実感を得ていました。 |
ところが、思わぬ事から、「自分で独立してやってみよう!」という思いが芽生え、遂に独立する決心をしました。 他でも触れていますが、当時(平成16年頃)は訪問販売リフォームが全盛で、父親の塗装店もその頃から仕事量がガクンと減っていた時期でした。そんなある日、材料関連の事は父親任せだった私と材料屋さんとで話す機会がありました。私 :「この塗料は1斗缶で何㎡くらい塗れる物なんですか?」 材料屋さん:「この塗料は、外壁の【上塗り材】じゃ無いですよ」 私 :「えっ!?」 材料屋さん:「これは、塗りながら模様を作っていく【単層弾性塗料】だから、【上塗り材】のように薄めて塗っちゃダメだよ」 私 :「………。」 |
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そうなのです。 私たちは、この塗料を希釈する時に、規定量の数倍の水を入れて塗っていたのです。 そうです、私自身が手抜き工事をしていたのです。ずーっと、自分達は丁寧な仕事をしている自負がありました。仕事仲間にも、工務店からも監督からも、信頼が厚く、お客様からも信頼されていました。 ところが…そんな自分達が「手抜き業者!?」 信じられませんでした。 |
もちろん、「どういう事?」と父に聞きましたが、聞く耳を持ってくれません。 「これでいいんだ」の一点張りです。1番は在庫の問題、そして予算との兼ね合いです。 また「この塗り方でも、昔の塗料から考えると決して性能が悪い訳では無いんだ」と言う理屈なのです。 確かに私にも「オウム事件の異臭騒ぎで使えなくなった臭い吹き付け塗料」より、その後で使い始めた「水増ししていた塗料」の方が性能が良いように思えました。父が言うように、塗った直後はその塗料でも十分キレイに見えるのです。 そして、その塗料を使い始めなければならない理由にも十分納得できるものがありました。ただ…、正規の使い方があるのに、亜流の使い方で良いのか? この塗装方法で胸を張って、良い仕事をしていると言って行けるのか? 結局、この事はきっかけに過ぎないのかも知れません。 |
思い立ったら我慢できない性格です。 平成16年の夏頃に意を決した私は、半年間の準備期間の後に独立。 個人事業の「花まるリフォーム」を始めました。 平成17年1月の事です。この時、1番悩んだのは、実は「社名」でした。 この「花まる」という名前は、私が大学生の頃マンガ研究会の仲間と作っていたアニメ映画の主役ロボット「はなまる君」からもらいました。 (よく間違われるのですが、TVの「はなまるマーケット」より「はなまる君」の方が古く、何の関係もありません) |
さて、独立はしたものの、お客さんがいません…。 独立するきっかけになった【営業の本】に書いてあった通り、私はまず小冊子を書き始めました。後でその著者の方に会って聞いたのですが、普通は皆さん、結構苦労して書かれるようです。 確かに普通の人が50ページもの本を書く、というのは敷居が高いのかもしれません。 (ですから、ネットで見る小冊子は、ライターが書いたものを自分が書いたように見せて配っている人がほとんどのようです~みんな表紙が同じです~) |
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ところが、私にとってそれは「楽しい作業」でした。 マンガ研究会時代「自分で描いたマンガの同人誌を自費出版する事」は1つのステータスでした。 しかし、絵が上手では無かった私だけが、本を出せなかったのです…。 ですから、20年後のリベンジなのです(笑)そんな経緯もあり、今までの20年の実体験と想いを込めて、約1ヵ月部屋に籠り書き上げました。 勿論、小冊子が出来てきた時の喜びはひとしおでした。今でも、我が子・我が分身のように思っています。 |
小冊子の原稿が完成し、印刷を待っている間に時間が出来ました。 そこで私は、チラシのポスティングと「ピンポン営業」をしてみました。…ところが、ポスティングって意外と恥ずかしいし、難しい。 どこのポストに入れたかも分からなくなってしまい、同じお宅に2回入れてしまったり、迷子になりかけたり。…ついには、おまわりさんに職務質問されてしまう始末…。「ピンポン営業」はもっと散々で、「誰もいませんように」と思いながらピンポンしていました。 結果、2日間の外回り営業で、あえなく撃沈。 もう2度とやるまい…というより出来ません。というのが分かりました。後々知ったのですが、「ピンポン営業マン」は並大抵の神経では出来ない仕事で、9割は辞めてしまうのだそうです。 |
嬉しい事に、タウン誌に載せた小冊子プレゼントの反響は予想以上で、早速初めての見積もり依頼が来ました。 ウキウキしてうかがい、打ち合わせを進めていたのですが、何気なく言った一言でお客様を怒らせてしまいました…。 そのお客さんから断りの電話を受け落ち込んでいると、翌日にも見積り依頼がありました。 そこで、もう余計な事は言うのはよそうと、なぜかリラックスした気分で出かけた結果、外装・防水の契約が取れてしまったのです。 |
実は当初、私は「職人は辞めてリフォーム営業マンになる」と本気で思っていました。(だから、花まるリフォームなのです) …でも、先の「暗黒の2日間」の外回りの経験から、「営業マンは出来ない」と分かりましたので、その時点で外壁塗装を専門にしようと決意を新たにしたのです。しかも、施工も自分でやっていれば、そんなに沢山はお客さんが必要ではないので、なんとかやって行けそうです。 さらに、ありがたい事に、その初めてのお客様を筆頭に、ほとんどのお客様が経営についてのアドバイスをしてくれるのです。頼りない私を見るに見かねて、かも知れないのですが、とても有難い事でした。実際に、初めて契約したお客さんからは「ちゃんと契約の時に前金を貰わないとだめだよ」と教えていただきました。 それまでの(職人的)方式では、お金は<全額後払い>が当たり前でしたので、とても驚いたのですが、以来その教えは守るようにしています。 |
それからしばらくは、1人で足場から塗装全てをやっていました。 そんな無謀な私に仕事をさせてくれる神様のような方がいたのです。しかし、ついにその夏、突然仕事が途切れ、やっと見積り依頼が来ました。 「この仕事を取らなければ!」…今考えればノイローゼのようでした。 この時、最初の見積りの時に失敗した事をすっかり忘れていたのです。一生懸命説明をしているうちに、お客様の頭上に【?】が浮かんでいるのが見えました。そこでデジカメで撮った施工事例をノートパソコンで見てもらったのです。すると…「こういうのを見たかったの。悪いけど、あなたが今まで言ってた事、さっぱり分らなかったわ。」なるほど…と。トークではなくビジュアルなのか…。 この方のこの一言が、花まるリフォームを救ってくれたのです。 この時の経験で見積りの際には、現状判断のための写真たっぷりの解説診断をしてあげようというアイデアが生まれ、「提案・診断書」という物が生まれました。 常に「ピンチの後にチャンス有り」だったような気がします。 |
この後のお客様に、「提案・診断書」をお持ちした時には、会えなかったご主人にもそれを夜に見てもらえて、ご契約に繋がりました。 これをきっかけに受注のペースがやっと安定してきました。ただ、平和だったのはそれから半年程で、職人さんを雇わなければいけない時期が来ました。 そんな時、仲間のコーキング業者に見知らぬ職人さんが来たのを見て、聞いてみました。すると「求人情報誌に載せたんだ」との事。すぐさま、求人誌に載せる事にしました。しかし、応募があるにはあるのですが、やはり希望の人材はなかなか集まりません。 |
そして、ついに、平成19年11月21日に法人化し、花まるリフォーム株式会社が誕生しました。 (昔と違い、「有限会社」が設立出来ないので、資本金100万円でも「株式会社」になってしまいます)それから1年、社員全員で「花まるリフォームのあるべき姿」を模索しました。 ディスカッションを重ねるうちで出てきたキーワードは「笑顔」。「笑顔」でいられる事が、私たちの使命であるべきだと。 そのために今、「花まるリフォーム」はさまざまな挑戦を続けてきました。特に、自分の職人としての姿勢をいかに職人に徹底させるかという部分で試行錯誤し、【自社職人】のメリット・デメリットを考えながら色々な形を試し、今の【専属職人】という形にたどり着きました。 |
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そして、さらに「そこまでやる?出来るの?」という下記のサービスを追加していき、さなる改善を常に模索しています。
● 「お客様の声」アンケートによる「お客様満足度」の確認(測定) これら、わたし達が出来る分野で「何が求められているか」「どんな役に立てるのか」を常に考える姿勢を貫きます。 |
「全てはお客様の笑顔のために」 これが「花まるリフォーム」の社訓です。これからも、数多くの失敗を経験するでしょう。 しかし、そこから得られるもの、そこに全てのチャンスが眠っている事を私たちは知っています。 その倍の改善を得る事こそが、我々の通るべき道だと信じて。笑顔の種をまきながら、これからも歩んで行きます。長くなってしまいましたが、最後までお読みいただいてありがとうございました。 |